卒業生から 『先生。私、海外に行って勉強してみたいです。』 と相談が来たりします。
私としては とても嬉しい相談です。
もう随分前の事だけれど、私にとってアメリカ留学は、人生の中で最も忘れられない出来事です。
『自分はこうだ。』 とか 『これはできない。』 とか 『好きな事が見つからない。。。』 とか
悩んだり 焦ったりしている 高校生・大学生。 多いみたい。
上手いアドバイスはできないけれど。。。
私の話をちょっと しますね。 あぁ〜。 先生にも自分と同じ年の時があったんだぁ〜と 思って、タイムトラベルしてくれたら嬉しいです。
私は ごく普通の公立小学校・中学校・高校を卒業しました。
英語との出逢いは 小学6年生の時。
経緯は覚えていないのですが、近所にある英語を教えてくれる先生のところへちょっとだけお世話になったことが記憶の片隅にあります。
アルファベットの小文字がどうも覚えられなくって、友達と二人で『どうやったら授業を脱線させられるか。。』 そんな事ばかりを考えていた6年生。 abcdefg (エービーシーディーイーエフジー) なのに、 どうして apple とつづけて書くと アップルと読むのか全く理解ができませんでした。 今ならフォニックスや、発音記号。。色んな教え方があるのですが、私の時代は、『こーゆーもんだ。覚えなさい。』 と教わったのでした。
その後中学に入ると、1年生の英語の先生がとにかく明るく朗らかな先生で、授業にフォークギターを持って来て、色んな英語の歌を歌ったのを覚えています。 歌・先生が大好きになって、英語は大好きな科目になりました。 本当にこの先生との出会いには感謝しています。
高校に入ると、今まで好きだった英語が段々苦痛になってきました。進むのが早いし、理解しようとしている間にどんどん新しい構文を覚えなければならない。。。 だから、今の高校生の苦しみがすごく良くわかります。
でも、洋楽は相変わらず好きで、良く聞いていました。ロックが好きで、特に BON JOVI。 彼らの歌をコピーするバンドに入って、キーボードを弾く高校生活。
テレビで小林克也のBEST HIT USA と言う番組を見て、彼の発音の格好良さ、海外アーティストにインタビューする姿。 そして “夜のヒットスタジオ” に通訳で出ていた服部真子さんの格好良さに憧れて、『英語を話せるようになりたい。 色んな人と言い合ったり、話したりしてみたい』 と強く思うようになりました。
そしてもう1人。 高校3年生の時の英語の先生。 ヨーコ先生。 アイメークをバッチリして、胸元にイニシャルの “Y” のネックレスをしていて、先生の中では抜群に発音が綺麗だった。
『そのネックレス。素敵です!』と言ったら、『いいでしょ。彼氏にもらったの。アメリカに居るのよ。』
休みの度にアメリカに行っていた先生にとても憧れました。
とにかく外に出たい! 一度海外に行ってみたい! と言う気持ちが強かったのは、親が逆にとても過保護だったからかもしれません。
私は一人っ子。父親がとても心配性で、高校2年生ぐらいになるまでは、友達の家や親戚の家へさえも1人で泊まりに行く事は許してもらえませんでした。門限も高校生で8時がやっと。高校生にもなると、自由に遊んでいる他の友達が羨ましくてたまりませんでした。
高校3年生。進路を決める時期。 私はどうしても一度アメリカに行きたくて行きたくてたまりませんでした。自分の目で世界を見たかった。 表現できない憧れから、自分で留学ジャーナルを取り寄せて、色んな学校を調べて、料金・期間・経験者の話。。。 よし。ここに行きたい! と決めてから親の説得に入りました。もちろんお金は無いですし、親の力がなければ実現しないのが留学。
『夏休みにアメリカに1ヶ月ホームステイに行きたい』
おおらかな母親は驚いてはいましたが、私が言い出したら聞かない性格なのはわかっていましたし、母も外への憧れは強い人だったので、賛成してくれました。 ちょうど親戚の叔父がサンフランシスコに住んで居たと言う事もあり、その近くだったらいいと言ってくれました。
父の説得はそれはそれは苦労しました。真っ向から反対。 ただただ “心配” の一言。
そこからは実力行使。 私たち親子は隣部屋に寝ていたのですが、父親が寝る時間にわざと廊下で英語の暗唱をしまくり、どれだけ英語をやりたいかをアピール。 学校の成績も頑張ったけれど、そんな事は問題ではない父。 最終的に母親が説得してくれて、あれやこれやの規制がある中で、やっと!了承してくれました。 この時は現地での学校・ホームステイは留学斡旋機関にお願いして、色々と手配をしてもらいました。
憧れのアメリカ。1人で飛行機に乗って、SFへ。
生まれて初めて会うジョー(譲)おじさんは、親戚が来た!と大喜びで、あちらこちらに連れて行ってくれましたが、夜になると必ずお酒を飲みながら泣きました。
ジョーおじさんは、戦前アメリカに土地を持っていた親戚に頼、誰か1人渡米してアメリカ籍を持たないと土地・財産が全部とられてしまうようだから、誰か行ってくれ。。。と頼まれ、若い時にアメリカに来て、永住権を持っていた人でした。 アメリカで結婚して、子供も出来て、華やかな戦後アメリカで幸せに暮らしていたのですが、奥さんと子供さんを交通事故で亡くし、その後生活は荒れたようです。その時は奥さんの看護婦だったフィリピン人のサリーと一緒に暮らしていました。
おじさんは英語は全て理解ができるけれど、話す事は得意ではありませんでした。 こんなに長く居るのに!と驚いたのを覚えています。サリーは元気な人で、フィリピンアクセントの英語で、私におじさんの事、おじさんはいっつも日本の事を考えて泣いていることを、トイレのドアを開けてでも話して来ました。ほんと。話好きな人でした。笑
色々いるなぁ〜〜〜アメリカ。。。と、思いつつ、向かった学校には、もっともっと色んな人が居ました。
ホームステイ先のママ。娘と二人暮らしのシングルママ。 彼氏は山の上に住むバイク乗りでした。 娘さんは12歳だったけれど、私より背が高くって、水着を貸して欲しいと話したら、ハイレグの水着を出して来たのにショックを受けたのを良く覚えています。笑
夕飯はとっても質素で、日本の食卓のような暖かい雰囲気がないし、家の中もほんのり薄暗かったりで、夜になるとホームシックになったりしました。昼間は昼間で、語学学校に行ったものの、授業はほとんど理解出来ず、『あぁ。。。 日本の英語の授業って、なんだったの!?』 と愕然。 そして、周りの人々を見て愕然。 名高い大学の大学生・院生や、卒業生がこぞって英語が全く話せない。。。
道に迷う。 バスを乗り間違う。 欲しいものが買えない。 食べれない。
憧れて行った最初のアメリカ。 自分の英語力の無させいで、その後の旅行達の思い出に比べると、どよーーーんとしています。もちろん楽しいことも沢山ありました。 でも、持って帰って来た思いは、とにかく 『言葉ができない と言うことは、見た目はいっちょまえだけれど、扱いは3歳児と同様だ。』 と言う事。
『あかーーーーん。』
日本に戻って来て、『私は通訳になりたいです。日本の大学に行っても、どうも英語は話せるようにはなれないみたいなので、専門学校に行くので、受験はしません。』 と先生達に伝えると、呆れてました。笑 でも、もう自分の気持ちは止められませんでした。 学校も自分で決めて、寮も決めて、さっさと願書を出しました。
上京。
朝9:00から16:00まで英語漬け。通訳ガイド・日本史・英文タイプの授業以外は全てネイティブの先生。
入ったクラスはトップクラスで、25名ぐらい居たと思います。 その内半分が帰国子女。 ネイティブの先生の話に “A-ha! ” とか相づちを打って笑ってたりします。 『こいつら宇宙人か??』 と内心思ってました。江戸の帰国子女に『あんた、大人しいね。』 と言われ、アメリカに行った時同様カルチャーショックを受けました。 『あんた!?って・・・・』 静岡では “あんた” 使わないし、呼ばれた事ないし。。。 w
負けたくない!と思い、先生がクラスの中で良く使うフレーズをカタカナでメモを取り、休み時間に先生を捕まえて “You said, “イビージャスファーイン” in a class. What did you say? Please write it down. ” と、聞いたままのカタカナをなんとなくそれっぽく伝えて、何と言っていたのか、どんな時に使えるのか?をくらいついて良く聞いていました。 (It’ll be just fine.) そして学んだフレーズを覚えると、ここだ! と言う時に使ってみるようにして、タイミングが違うと、先生がここでは使わない。。。と、指摘してくれました。 とにかく真似。 真似。 真似。 帰国子女達の話し方も真似・真似・真似。
田舎者の集まりの寮生活も楽しかった! その当時スチュワーデスが憧れ職業で、私の学校は育成学校として名を馳せていたので、地方からこのスチュワーデスコースに入って頑張る人が多かった。 仲が良かったスチュワーデス科の友達は、O脚をなんとか直そうと、がんばっていて、夜二段ベッドに入ってから、脚を紐で縛って欲しい!と頼まれたのを良く覚えています。 (その後彼女は立派に日本航空のスチュワーデスになり、留学中に会えました。スチュワーデスの制服は大丸でパートのタグがついていました。懐かしいなぁ。)
新聞奨学生達の存在も大きかった。彼らは新聞配達をしながら自分で自活して学校に通っていました。やる気のある同級生達に囲まれて、休み時間も英語で話そう!と言う雰囲気ができていました。
東京の生活はとても楽しかった。 週末になれば外国人の集まりに参加をして、英語を話す機会を極力増やしました。中野にあるワーキングホリデーのパーティーに行ったりしました。ワーホリ。。。行ってみたいなぁ。。。と考えるようになりました。そして、実際ワーホリで海外から来ている人たちと話をしたり、外人ハウス(仕事が決まったり、スポンサーがつくまで外国人達が集まって一軒家をシェアしている)に遊びに行ったりして、トーストにジャムと間違えて 江戸家の海苔をつけているオーストラリア人に教えてあげたり、みそ汁が好きだと言いながら、お湯を味噌にといただけで満足している人を見て料理を教えてあげたり。 週末の数えきれないパーティー。 初めて食べた本当のミートボールスパゲッティ・キャビア・ピロシキ・シシカバブ・・・・ 色んな国の人と遊び、学び、お互い教え合い助け合い。 1年間で私の英語は比べ物にならないくらい上達しました。
その内。もう一度留学したいと言う気持ちが大きくなり、自分で学校を調べ、かかる費用を算出して、『4年生の大学に行ったと思って、学費を貸して欲しい。』と親に頼みました。 東京に離れて暮らしていたせいもあったのか、諦めモードだったのか、快諾とは行かないものの親は許してくれました。
学校を一年間休学し、3月から留学出発の6月まで、東京で友達の家に転がり込みながらバイトに明け暮れる毎日を送りました。英文タイプの仕事は当時時給が良く、貿易事務を昼間。夜は居酒屋。食費が浮きます。留学前はカナダ人と中野でルームシェアをしたりしながら、留学費用を稼ぎました。
そして再びアメリカ。 今回もおじさんが近くに居るからと言う理由でサンフランシスコにある、UC バークレーのExtention Center (語学学校)を選び、市内の モンローと言う長期滞在者が使う宿に二人部屋に住みました。学校は名高いバークレーの分校だったので、大学の施設も使えたり、授業を聴講できたりしました。先生の質も高く、自分の語学力も上がっていた事で、とても有意義でした。 レベルの下のクラスには日本人が固まっていました。 何年も居る人も居ました。 日本人で固まっては、感心しない遊びに夢中になっているお金持ちの御曹司が多かった。 私は時間もお金も無駄にしたくなかったので、極力このグループから遠ざかっていました。
タイ・チリ・スイス・ドイツ・フランス・スペイン・イタリア・・・ 色んな国から集まったクラスメート達。正直英語は私の方が上だ!と思っても、ディベートの授業となると鳴かず飛ばず。 言葉が話せるだけでは駄目なんだなぁ。。。 痛感しました。 そして彼らが日本の近代史について良く知っている事にも驚きました。 学校の勉強は暗記で、テストが終わればすっからかん。のような日本の教育は彼らは受けていないと言う事がよくわかりました。
10週間のプログラムを2回。 そして別の小さな学校で4週間ぐらいの語学留学。 質は圧倒的に大学付属の物が良かったです。
沢山の人と出会い、多くの事を学びました。 一番留学して良かったなと思っている点は、1つの事柄に関して、色んな見方ができるようになったこと。 いろんな人種や環境で育った人々と話してみると、“常識” は存在しないもので、日本のいい所でもあり、もしかしたらコミュニケーション下手に拍車をかけてしまっている “暗黙の了解” は 無い。 と言うこと。いつでも、誰でも、どんな人でも “ゼロ” から 理解するようになれたし、他の人々がするゴシップには気にならなくなりました。色んな意見がある。当たり前。そして皆で話すのは “建設的な次のため” であって、けなし合ったり、ネガティブキャンペーンはありません。 そして。 みんな自分の人生を謳歌するために生きていたこと。 逞しさと強さ。 そんな事を学んだ気がします。
私の小学生の文集には“弁護士になりたい” と 書いてあります。 中学では “先生になりたい” と。
でも、その夢を叶えるために、進んで来た私ではないです。 正直な所、悪く言えば行き当たりばったり。良く言えば神の導き。その時々の興味と関心が導くままに進んで来た結果、今の私があります。 プロフィールを読んでもらってもわかると思いますが、今の仕事をする以前も、色んな事をやってみました。 Seeing is believing. な性分です。 私のように、歩きながら見つける人もいるだろうし、コツコツと目標を持って進める人も居ると思います。 自分は何者だ!?と 焦ったら、気を紛らわす為には本が一番いいと思います。これは 確か。
先日。 “教員になるつもりなのですが、その前に留学しようと思うのですが。。。” と メールをくれた Rちゃん。
子供が好きで、優しい貴方の事なので、きっといい先生になると思います。 でも、貴方がもうひと回り大きな世界を見ることで、貴方を通して多くの事を学んで行く、何人もの子ども達が更に広い心を持てるようになることを想像すると、嬉しくてたまりません。素晴らしいことだと思います。 教員の世界は外から見るより、閉鎖的なようです。一度中に入ったら、その場所の常識に縛られるようになってしまうかもしれません。
若い貴方が今、“してみたい” と 思う心の声に耳を傾けて。
☆大好きな貴方に、大好きな言葉を贈ります☆
“Your time is limited, so don’t waste it living someone else’s life. Don’t be trapped by dogma – which is living with the results of other people’s thinking. Don’t let the noise of other’s opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.”
― Steve Jobs
19・20歳の頃

















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